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大学概要

米軍ヘリ墜落事件

学生による意見発表(2021年度)

文書
「私たちが平和に暮らすためには」


総合文化学部 日本文化学科 2年次 石川舞

2004年8月13日午後2時15分頃、沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落しました。当時、私は3歳でその時の様子はわかりません。小学校に上がり、平和学習の一環で学んだ時も遠い過去の出来事のように感じ、現実味はありませんでした。中学生になると、担任の先生がヘリ墜落について自身の体験を踏まえた上で話してくださいました。当時、大学生だった先生は、大学へ向かう途中、建物が煙を上げている姿を車内から見たと言います。私は、リアルな体験談を聞いてようやく、遠い過去ではなく、今でも起こりうる出来事であったのだと実感しました。
高校生になり出会った私の友人は、当時、沖縄国際大学の周辺にある保育所にいたそうです。2歳だった友人は、親が焦り心配した様子で迎えに来てくれたことを覚えていました。保育所の先生が、いつもと違うヘリの音に不安を抱いていたと話してくれたそうです。巻き込まれていたら私や他の人達に出会うことすら出来なかったね、と友人は言いました。それから私は、当時、墜落現場の周辺にいたという友人が多くいることに気づきました。もし、墜落した場所がほんの少しずれていたら、近隣住宅に被害が及んだかもしれません。みんなが巻き込まれなくて良かったと安心する反面、基地がなければこうした心配をする必要すら無かったのにと手放しで喜べない自分がいました。
沖縄国際大学の図書館には米軍ヘリ墜落事件関連資料室があります。資料室の中には、当時の様子を伝える写真や旧本館南壁画の一部が、当時のまま展示されています。黒く焦げた鉄筋とコンクリートの破片が、炎上の凄まじさを伝えています。墜落の様子から「沖縄の戦後はまだ終わっていない」という強い気持ちを抱き、描いた画家の絵画が、そこにはあります。
私は、展示している写真や当時の新聞記事にある、米軍の対応や大学構内にヘリの一部が入り込んでいる姿に衝撃を受けました。小さな赤ちゃんと母親が掲載された新聞記事は、ヘリが墜落した現場の近くに住んでいたため、無我夢中で外へ逃げたということを語っています。もしかすると、記事に写っている赤ちゃんの写真が、私や友人、沖縄国際大学に通っている学生になっていたかもしれません。一歩間違えれば大惨事に繋がった出来事が、日常と隣り合わせであることに、改めて恐怖を覚えました。
危険が身近にある生活は、本来あってはならないことです。しかし、基地がある限り、危険が払拭されることはありません。近年、米軍ヘリの事件・事故が相次いで起きています。米軍ヘリ墜落から17年経過した今日も、基地問題の状況は依然として変化していません。小さな子どもや、地域住民の方々が安心した生活を送るためには、どのくらいの時間を要するのでしょうか。
図書館独自の意識調査の中で、「沖縄国際大学の敷地内にヘリが墜落したことを知っていますか」という質問に、2割程度の大学生が詳細を知っていると回答しています。決して多い数字だとは言い切れません。また、ヘリが墜落したときの映像を授業の一環であれば見たいという声が多く見受けられます。このことから、大学生の半数が、基地問題や米軍ヘリ墜落に対してどこか他人事で強い関心を寄せていないということが読み取れます。その要因の一つとして、米軍ヘリ墜落を記憶しない世代への移行が進んでいることが含まれると推測します。
更に、多くの若者が危機意識を持つためには、大学の講義だけでなく、自主的に学ぶ環境作りを整えることが必要であると考えます。また、図書館の資料を、未来に伝えるという観点から電子メディアを用いて、重要な記録資料を保存するデジタルアーカイブ化を進めることで、より米軍ヘリ墜落について知るきっかけが増えるのではないかと思います。デジタルアーカイブの試みとして、広島・長崎の原爆、東日本大震災の記録の保存活動が各地で行われています。デジタル媒体で残すことにより、全世界へ平和の発信をすることが可能となります。基地問題が複雑化していることも合わせて表面化できると考えます。人々の記録だけでなく、記憶を後世に残す。それにより、平和な暮らしとは何かについて、一人一人が思いや考えを抱くことができるのではないでしょうか。
数年後に入学する大学生は、米軍ヘリが墜落したときに生まれていない世代となります。今よりも更に、墜落したという事実を知らない若者が増えていくのでしょう。過去の歴史として風化され、忘れ去られていくということも考えられます。しかし、米軍ヘリ墜落について、知らなかったと看過することはできません。今、上空を飛ぶヘリが墜落しないという保証はどこにもないのです。米軍ヘリが墜落したときや、それ以上の被害がいつ発生してもおかしくない状況です。まずは、様々な基地問題について知るきっかけが必要だと考えます。
今日、8月13日が沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したという事実を含め、基地問題について今一度、考える日となることを願っております。地域住民の方々が安心して、生活を送れる日が来ることを祈っております。



「語り継ぐ沖縄(うちなー)の心」


総合文化学部 英米言語文化学科 4年次 比嘉夏香

このキャンパスの道一本向こうには、アメリカがあります。
パスポートを持っていても、入ることのできないフェンスの向こうでは
アメリカがアメリカを守るための戦闘機が毎日訓練の離発着をしています。
私たち沖国大生は、低空を行き交う威圧的な姿と、轟音にさらされながら
日々、その騒音で講義を、友人との会話を途切れさせながら、学んでいます。

「世界一危険な大学」
沖縄国際大学が自らそう呼ぶのは、恐ろしい事故の記憶があるからです。
そしてその事故がふたたび起こる危険性が、当たり前のようにあるからです。

想像してみてください。
5700人以上の学生が学ぶ学舎に、制御不能になった軍用ヘリが落ちてくることを。
想像してみてください。
墜落するヘリコプターの部品や壊れたコンクリート片が、弾丸のように2キロ以上の四方に飛び散る状況を。
想像してみてください。
墜落したヘリの破片が窓を突き破り、母親と赤ちゃんがお昼寝をしている頭の上を飛び越えていくところを。

2004年8月13日午後2時15分頃、我が沖縄国際大学に米軍ヘリ普天間飛行場所属、CH53Dが墜落するという事故が起こりました。墜落したヘリコプターの破片は大学構内のみならず周辺の住宅にも飛び散り、人々は戦慄と恐怖と混乱に巻き込まれました。

当時私は4歳でした。6歳だった姉と父は、大学の周辺を散歩している最中、この事故を目撃しました。沖縄では日常的に空を飛んでいる米軍機。それが突然墜落し、炎上し、どれほど驚いたことでしょう。父と姉は一目散に家に戻ってきました。言葉も表情も慌てふためきとても混乱した様子で事故のことを話していました。テレビから流れるニュースを見て、がたがたと震えて呆然と立ち尽くす母の姿を今でもはっきりと覚えています。

あれから今年で17年の時が経ちます。この事故のことを覚えている学生はどのくらいいるのでしょうか?
墜落事故発生直後、消火にかけつけたのは沖縄の消防士たちでした。宜野湾消防署の全車が対応にあたり、無事に鎮火したのもつかの間、米軍は墜落現場を黄色いテープで封鎖し、消防士らだけでなく市や大学、県警、マスコミ関係者でさえも現場に立ち入らせませんでした。

普段はフェンスの向こうにあるはずのアメリカ。
でも、有事には、テープ1本でそこがアメリカになってしまうのです。
日本の土地、日本の大学の敷地、日本人が通う大学であるにもかかわらず、黄色いテープの向こうには沖縄の警察官も、役人も、ジャーナリストでさえも入ることができないのです。
テープの向こうに日本人の被害者がいたとしても、それを知る術すらないのです。
このとき私たちに突き付けられたのは、「日米地位協定」という見えない大きな壁でした。
そしてこれは、沖縄だけではなく、日本とアメリカの協定なのです。
日本中どこででも、同じことが起きうるのです。

私は、進路を決める際、平和のための活動ができる大学を、と考え、沖縄国際大学を選びました。見学のため、初めて大学を訪れたとき、私は大学のモニュメントであるこのアカギの木に出会いました。本来この木はもっと大きくて立派なものでしたが、ヘリが墜落した際に延焼し、焦げた枝や幹が切り落とされて現在の姿になり、今も事故の記憶を物語っています。この木が私を沖縄国際大学に導き、この事故のことを語り継ぎたいと願う私を見守ってくれていました。

私は、高校時代沖縄戦の体験者の方々にお話しを伺い、それを地域の小中学校や公民館での講話を通して次世代に語り継いでいくという活動を行っていました。

大学入学後も共に活動を行っていた仲間達と平和を考える団体ピースフル・フューチャーを立ち上げ、「平和のためにできること~ヒガタケジロウさんを通して」と題し、沖国大祭でトークライブショーを行いました。比嘉武次郎さんは元米陸軍情報部員として沖縄戦で通訳を担当し、日本語とうちなーぐちを駆使して、洞窟に隠れる多くの住民に投降を呼びかけた方です。また、私は沖縄アレン奨学金という活動にも携わっています。二年生の時には沖国大で「アレンさん平和へのメッセージ没後10年企画」を行いました。アレンさんは生前、ベトナム戦争時、海兵隊員として最前線で戦っていた人です。自らの体験を元に戦争の恐ろしさや憲法9条の大切さ、平和の尊さを訴え続けてきた方です。これらの経験から、戦争は決して過去のことではなく、敗戦は現在に続く生きた歴史であるということ、そして、いまの沖縄に、日本に、何が起きているのかを私たち自身が見て、考え続けていかなければならないことを学びました。
最後に、基地に対して賛成か反対もしくは両方という意見の人がいるでしょう。
十人十色、賛否両論、狭い沖縄でも色々な意見があります。大切なのは賛成か反対かではなく、日米が同じテーブルにつき、沖縄だけの問題と捉えず解決に向け努力をすることだと思います。基地面積も大きいけれど、平和を愛する力はもっと大きいはずです。島国は狭いけれど、海上の道は広くアジアや世界に向いています。

今日の機会に、沢山の人にこの沖縄国際大学で起きたヘリ墜落のことを知ってほしい。
普天間飛行場に隣接する大学の学生として、この活動を続けることで、いつか平和の芽がでると信じて、この事故のことを語り継ぎたい。一人一人の努力を足し算し、協力を掛け算し、世界中の人の心に大きな「ゆいまーるの輪」を作っていきたい。
過去から学び未来に伝える、これが今、生かされている私たちの使命です。