文字サイズ

大学概要

米軍ヘリ墜落事件

学生による意見発表(2022年度)

文書
現代に続く〈沖縄戦〉~〈継承〉の矛盾と課題~


合文化学部 社会文化学科2年次
永田美桜


私たちは今、戦後77年目を生きています。そして、沖縄県は今年で復帰50年目を迎えました。1945年9月7日、史上まれに見る地上戦と言われ、住民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦の降伏調印式が行われ、1972年まで沖縄県はアメリカの統治下に置かれました。沖縄県が本土に復帰して以降、いったい何が変わったでしょうか。著しく変化したことと言えば、通貨がドルから円に切り替わったこと、パスポートの廃止、道路交通法の変更といったところでしょうか。しかし、住民の生活に視点を当てるとどうでしょうか。米軍による事件・事故をはじめ、戦闘機などの騒音による不眠、基地から流れ出る汚染物質による水質汚染など、復帰前から変わったことよりも変わっていないことのほうが多いというのが現状です。
2004年には、私たちが通うこの沖縄国際大学に、アメリカ軍普天間基地所属の大型ヘリコプターが墜落しました。この事故による死者は出なかったものの、当時の事故現場近くの1号館内には20数名の職員がいました。もし、墜落現場が少しでもずれていたら、この職員たちの命が失われることになっていたかもしれません。また、この事故は近隣住民の日常生活に多大な恐怖と不安を与えることになりました。このような、住民の生活に恐怖や不安を及ぼすといった状況は戦時中と変わらないと言えます。
ここまで、沖縄県の米軍問題に関する話をしてきましたが、私の出身は埼玉県です。沖縄県とは縁もゆかりもありません。ましてや、沖国大ヘリ墜落事故が起きた2004年、私は当時5歳でした。もちろん、事故のことは知らず、はじめてこの事故のことを知ったのは数年前のことです。幼少期から「戦争」というものに関心を持っており、沖縄に視点を当てて真の「平和」を追求していきたいという思いから、沖国大で沖縄が直面している課題について学ぶ決意をしました。そして、4月から、沖縄での生活を始めたことで日常的にニュースや新聞で取り上げられている沖縄の問題が、どれだけ重要なものなのか、そして県外出身の私が沖縄の問題について学ぶ意義は何なのか、考えさせられる毎日を送っています。
私が生まれ育った埼玉県は、小学生のうちから平和教育を受けるということはありません。せいぜい、高校生になってようやく、修学旅行や課外学習などで平和学習を行う程度です。私は、戦争の記憶が風化されつつあるこの時代、沖縄の過去から現在に至るまでの米軍による事件や事故さえも、いずれは人々の記憶から消されてしまうのではないかと危惧しています。他県の人々は「沖縄」と聞いて第一に「きれいな海」を思い浮かべますが、「米軍基地」や「沖縄戦」を思い浮かべる人はほとんどいません。私が沖縄へ行くことを友人に切り出した際も、第一声が沖縄の「青い海」や「青い空」を羨望する言葉でした。沖縄県は観光地として全国トップクラスですが、それによって沖縄が直面している問題が覆い隠されてしまっているように思えます。今では慶良間ブルーと呼ばれ、31番目の国立公園に指
定された慶良間諸島は、
77年前に米軍が一番初めに上陸した地であり、沖縄の代表的な観光スポットである首里城は、77年前の沖縄戦において、沖縄守備軍の司令部壕として使用されていました。このような、今では「観光資源」となっている土地や建造物に隠された惨たらしい過去があることを、沖縄を観光地として選ぶ人の中で知っている人はどれほどいるのでしょうか。ほとんどの人が沖縄の「過去」を知らないことで、沖縄のイメージを「きれいな海」と植え付けてしまっているのではないかと思います。
現代を生きる私たちに求められていることは、「静かで自然が多い沖縄」を創ることです。米軍機がもたらす騒音や、それに伴う事件や事故などの問題は、沖縄だけで解決する問題ではありません。沖縄県民だけではなく県外の人々にも知ってもらうべきです。沖縄戦を経験した人の中には、戦後、「沖縄戦PTSD」という症状に苦しめられている人もいます。死体を踏んで逃げた感覚が蘇り、足の裏が熱くなる、米軍機の騒音が当時を想起させるといった、沖縄戦の記憶が現代に至っても沖縄戦経験者を苦しめているのです。つまり、沖縄戦によって「生かされた」人々、また、現代の沖縄において米軍の存在に怯えて生きる人々は、戦後77年経っても「いくさ世」に身を置いている、そして沖縄戦は終わっていないと言えるのです。
沖縄の人々が、どれほどの苦痛を抱え現代に至るか、私のように沖縄県外で生まれ育った人には分からない・分かってもらえないことは多々あると思います。今後日本を担っていく政治家の中に、全く戦争に関心を持たない政治家が台頭した場合、77年前の繰り返しになる可能性も全くないわけではありません。そのようなことを考えたとき、分からないことを土の中に埋めたままにすることがどれほど残酷なことか、個々が当事者意識を持つべきではないでしょうか。
世間では「戦争の悲惨さを〈継承〉していく」というような言葉をよく耳にします。では〈継承〉とは一体何でしょうか。基地社会を当たり前としている沖縄にとって、〈継承〉は一言で表せるほど単純な構造ではありません。基地社会に身を置いていながら〈継承〉していくということは矛盾しているのではないのでしょうか。「静かな沖縄」を創って初めて〈継承〉という言葉が妥当であると思います。これらのことを考えるとき、改めて〈継承〉の難しさを感じます。私が今発している言葉が、決してカタチとして残り、〈継承〉に直結するものだとは思いません。ですが、私の言葉こそ、〈継承〉のきっかけとして残すことが大事であると思います。沖縄が抱えている問題を沖縄だけに留めず、日本全体の問題として捉え、知ってもらうきっかけを創っていくことが、将来「沖縄は〈平穏〉になったね」と言い合える日常につながっていくのではないでしょうか。

首里城の丘かすむこなた
松風清き大道に
沿いていらかの棟たかし
これぞ吾等が学びの舎

これは、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の校歌の一部を抜粋した歌詞です。
今後、日本全体・そして世界全体が沖縄を見る角度を変え、この歌詞からも読み取れるような「静かな沖縄」が創造されていくことを願います。


「米軍ヘリ墜落を受けて思うこと」


総合文化学部 人間福祉学科 4年次
平良渚

今から18年前の2004年8月13日、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落しました。墜落後に炎上した機体は、宜野湾市消防による消化活動の後、鎮火されました。しかし、その後事故現場は、米軍によって事故現場への立ち入りが制限され、沖縄の警察や消防、当時の大学学長や宜野湾市長さえも立ち入りが認められず、事故状況が正確に把握できない状態でした。当時、私は3歳で、この米軍ヘリ墜落についての記憶はありませんが、事故直後、母に警察関係者の知人から、「何が起こっているかわからなくて危険だから、近寄るな」と連絡があったというエピソードを聞きました。

私の通っていた小学校は、沖縄戦で日本軍司令部が置かれた場所でした。学校の敷地内に防空壕の入り口があり、当時でも不発弾が発見されるなど、私は戦争の爪痕が色濃く残る場所で、育ちました。また平和学習として、戦争体験者の話や当時の状況を再現した動画などから、沖縄戦について学び、平和の大切さを知りました。その他にも、少年兵であった祖父から当時の体験談を聞いたこともありました。自分からは決して戦争時の話はせず、戦後50年以上経過していても話すことが辛そうな様子から、戦争というのはとても残酷なものであると感じたことを今でも覚えています。これらの体験を通して、平和の尊さについて考え、平和を維持することの大切さを感じてきました。

一方で、幼少期には基地に住んでいた親戚に会いに基地内に入った経験もあります。その当時の感想としては、フェンス越しに外国があると感じるものの、そこが戦争と結びつくような危険な場所だと感じたことはありませんでした。また、テレビ等を通して、米軍基地に関する事件・事故のニュースについては知っていましたが、それについて漠然と良くないことだという感想を抱くだけで、自分の問題として捉えることはできていませんでした。

しかしながら、沖縄国際大学に入学後、通学路の隣にあるフェンスの向こう側が普天間基地であったことに、こんなにも近くに基地があるのかと衝撃を受けました。私の住む那覇市内でもオスプレイ飛行時の音は聞こえますが、本学から聞こえる音や離発着時に見える軍用機は、比べ物にならないほど大きいものでした。この時、自分の生活と基地が密接しているのだと初めて感じることとなりました。
本学の図書館には米軍ヘリ墜落事故に関する資料が展示されています。今まで、ニュース映像などでヘリが炎上している様子などは見たことがありましたが、大学生活と関連深い室内の被害状況写真を見て初めて、現実に起こった出来事であると実感がわきました。それ以降、軍用機墜落の危険性は常にあるのだと、基地の軍事的な側面を強く意識させられました。大学生になるまで、戦争や平和について考える機会は多く、自分の意見もはっきりと持っているつもりでしたが、米軍基地についての意見は漠然としており、自身の問題としてリアルには感じていませんでした。本学入学以降、上記の体験から基地が身近にあると感じたことをきっかけに、基地に対する知識や理解がまだまだ足りていないと痛感しました。

米軍ヘリ墜落事故と何ら変わらない米軍との関係が、このコロナ禍においても見られます。隣国の韓国では、在韓米軍司令官の裁量により、米国軍人の感染者数だけでなく、感染者の行動履歴や感染経路などの情報の公表がされていました。一方、同時期の日本では、在沖米軍基地内での感染者数の公表のみで、感染者の行動履歴など、感染状況把握に関わる十分な情報は公表されていませんでした。同じ米軍基地がある場所でも、韓国と日本とでは米軍との関係に違いがあることがわかります。

同じ沖縄で生活していても、基地問題をどれだけ身近に感じるかというのは住んでいる地域によって異なっており、沖縄県内でさえ温度差があるのが現状だと感じます。また、基地に対する意見は人それぞれですし、米軍基地は県民にとって生活のあらゆる面で関わりがあるものだからこそ、賛成か反対かのどちらかに二分できるような単純なものではありません。しかしながら、軍用機墜落など危険と隣合わせであること、また何か起こっても、身を守るのに十分な情報提供が行われず、対等な関係ではないという現実は、改善していくべきことではないでしょうか?そのためには、自ら情報を集め、基地やそれを取り巻く状況について知ることが重要だと考えます。また私たち若い世代は、戦争や基地問題についてタブー視して話す機会が少ないため、基地の在り方やその現状、問題点などについて過去の出来事と共に振り返り、安全とは何か、平和の尊さをどう継承していくかを考え、行動していくことが求められていると思います。

この事故で、幸運にも死者は出ませんでしたが、基地の危険性を強烈に突きつける結果となりました。基地と隣り合わせで暮らさざるを得ない私たち沖縄県民に恐怖を与えた、米軍ヘリ墜落事故。
人命が奪われる取り返しのつかない事故が起きてしまう前に、危険性を取り除いてほしいと強く願います。