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社会文化学科のブログ

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琉中交流史と閩東

教員の研究活動
 社会文化学科で歴史系の科目を担当しています深澤秋人といいます。研究テーマの一つは近世琉球の対外関係史ですが、1990年代から2000年代までは琉球・中国交流史(琉中交流史)に取り組み、拙著『近世琉球中国交流史の研究』(榕樹書林、2011年)をもって一区切りとしました。
 中国の行政区画は省のもとに府があります。琉球使節の中国での拠点だった福州がある福建省は九つの府と二つの州からなっていました。府の行政施設は城壁都市に置かれたことから、その都市を府城といいます。清代の琉球使節の朝貢ルートは、福州府、延平府、建寧府を通過して浙江省へと入りました。三つの府は福建省の中央かつ北部に位置します。なお、福州府城(福建省城でもある)は福建省随一の河川である閩江の河口から70㌔さかのぼった地点にありました。閩とは福建の別名です。福建省北端の建寧府は「閩北」に区分されます。
 琉中交流史研究に取り組みきっかけとなったのは、1992年、琉球使節の朝貢ルートを基本的に徒歩でたどる「中国大陸3000㌔踏査行」に部分的に参加したことでした。特に、建寧府でも最北端にあたる浦城・仙陽・九牧をじっくりと歩いたのは得難い経験でした。あとから、朝貢ルートとも重なる福州府・延平府・建寧府は浙江省や江西省との商品流通の大動脈であり、清末の太平天国の乱では「閩北」の建寧府に省外から集団の移動(進入)があったことを知りました。時を経て、2018年、本学南島文化研究所の福建調査に参加しました。福建師範大学の頼正維先生の全面的なご協力を得て巡見を実施し、目的地は浙江省と境を接する省東部「閩東」の福寧府城がある霞浦でした。現在でも福州からの移動時間は2時間を要します。往路の車窓から見た海岸線は複雑に入り組み、干潟が広がり、閩江河口部付近とは景観が大きく異なりました。霞浦では、高台にある龍首寺から、すでに城壁は取り払われているものの、コンパクトな府城の街並みを望むことができました。また、頼先生が、復路の車内で見かけたキリスト教会の由来を説明してくださりながら、太平天国の乱の時期、この地域や民衆の活動にも影響があったと話されていたのが印象に残っています。
 対外関係史研究は現地を訪れ、二国間関係史だけでなく、その地域の状況を考えることが重要だと思います。これまで「閩北」ととともに「閩東」を踏査することができました。「閩東」には琉球船の漂着はあったものの、朝貢ルートや流通の大動脈からは外れているといえます。しかし、決して何もなかったわけではありません。そこにも商品の生産があり、人びとの生活や活動がありました。琉球と直接的な関係はなくとも、ヒト・モノ・地域を考えることによって歴史像が豊かになり、朝貢ルートに限定されない福建を母胎とした琉中交流史を構築できるのではないでしょうか。ちなみに、福州で宿泊したホテルの近くに夜市があり、「閩東」の名を冠した屋台がいくつも並んでいました。